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いつか必要になるものは いつ必要になるのだろうか:山田洋嗣先生より

2005/03/18

日本語日本文学  山田 洋嗣

そのものにとりつきて、そのものを費やしそこなふもの、数を知らずあり。
身に虱あり、家に鼠あり、国に財あり、君子に仁義あり、僧に法あり。

^先日から部屋の整理をしている。まだ片づかない。本やレコードが増殖して生活を阻害するようになったので、普通の生活がしたいとふと思ったのである。
これでは書庫か研究室に寝泊りしているようなものだ。私の部屋は、古い公団の団地で、ゆったりとできており、計算によると、八畳が二つ、六畳が三つ分あるはずだが、とてもそうは思われない。これだけ部屋があっても客の「定員」は四名である。口の悪いやつが「先生のところはワンルームですか」と言った。ばかやろ、である。
^問題が本とレコードにあることは間違いないので、これを減らすことを考えた。レコードは聴くための機械とともになければならないから、よそに置くことは不可能である。本を動かす他はない。大きな家を建てるとか、もう一軒部屋を借りて書庫にするなどの考えも浮かんだけれども、貧書生には無理に決まっている。幸い立派な研究室をいただいていることでもあり、本や資料、抜刷の類を一部研究室に運ぶことにし、空いた本棚は誰かに進呈することとして、もって空間の開放を企てたのである。
^幸い、大学院生の西田、坂田両君と、ロープ使いの達人、佐野先生までもが手伝って下さって、運搬はうまく進んだ。問題はその前後である。何を運び、何を残すか、残したものをどこに配置し直すか、これは私以外にはできないので、考え考え運搬用の箱につめて時間がかかり、あちらの本棚からこちらへと本の移動は時間がかかる。自分の過去と現在と将来がそこにあって、いわば自分をかけて考えなければならないからで、それでいまだに途中なのである。秦先生の研究室が本であふれ、汗牛充棟の用例のような部屋であったことは誰でも知っている。ご退職の折の引越しをみて、大変なものだと思ったけれど、狭い部屋であちこちへ本をやりくりするのに比べれば、そのご苦労を見ているのに、全部を運び出すのは作業としては簡単かな、などと失礼かもしれないことを考えた。

^なぜこのようなことになったのか、その理由ははっきりしている。収集癖があるところにもってきて生来の本好き、音楽好きにしてそれを鳴らす機械も好き、と好きが重なったからだが、さらに根本のところはわれわれのような研究のためには本が必要だからである。

^学生のころ、大学を離れても学問を続けたいなら、自分なりのライブラリを作る必要があるというようなことを言われたし、その時々の必要と関心に従って本を買い続けて、一応は図書館の世話にならなくても済む程度の蔵書にはなった。先生はこれを全部読んだのですかと言う人がいるが、本は全部読むものだと思っているのは無邪気な人である。われわれは「いつか読む」ために集めているのだし、「いつか使う」ために買っているのである。それは明日かもしれないし、十年先かもしれないし、永久に来ないかもしれないけれど。

^さて、そうして整理を続けていると、資料や下書きや伝本の写真、ノートやカードなども出てきたし、どの本を残すか、どの本をどこに置くかを考えていると、自分の成育歴のようなものが改めて分かった。そうしてそれが本の背表紙の形で一望できるようになった。何をしていたか、何をしたかったか、あるいは何をしたいか、そういうことを本棚が教えてくれたのである。学生山田君は良く勉強していた、偉かったなあということも分かった。実際、学問だけに自分を集中させられるのは学生だけの特権かもしれない。「彼」は実にいろんなことをやっていたのであった。
^かくして、大げさながら、私を再発見した私は、これからこの中でその私とともに「普通の生活」を営み、勉強をするつもりである。どれだけ広くなったか見たい人はどうぞ遊びに来てください。じき全部片づきます。ただし、その時は五人以下でお願いいたします。

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