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人文学部教授 山中博心先生お薦めの本のご紹介

2004/06/04

多木浩二 『雑学者の夢』(岩波書店 1800円)

まず、著者の言葉を聞いて下さい。「私にとって『雑学』と呼ばれるものは、まとまりのない雑然とした、前言説的領域へのまなざしをさしているのである。そのような領域から社会的文化がやがて歴史として言説化されてくる。世界は無数の生きた実践によって構成されるテクストだという考え方が、現実の経験と読書によってゆっくり私の中で育っていった。」著者にとっては、精神の歩みは生活そのものと切り離すことができない。そもそも生きるとは「雑」なのであるという基本的姿勢が窺える。それは合理的で無駄のないことをモットーとしてきた今の「豊かさ」に対する警鐘とも思える。例えばこの本の中で、バルター・ベンヤミンの抱えていた問題に言及し、この世界が「語り得るもの」と「語り得ぬもの」によって構成されているという。「ベンヤミンは非言語的なすべての芸術は言語精神の精髄に基づいているのではなく、事物の言語精神に基づいていると考える。事物の言語は完全に語られうるものではない。」人間の言語は純粋に精神的で非物質的であるといえる。

^人間の力の及ばぬところがあるということである。「中庭に開け放たれ、上階のロッジアの床が屋根代わりになっているスペース」は外部と内部の中間地帯であると考えられる。その場所に出ることは「庇護」を失うことであると同時に開放感を得るものである、という相反する意味の出会いの場である。精神の豊かさが生まれるとすれば、個人の歴史にとっても社会の歴史にとっても矛盾をはらんだ場である。「近代主義者はゼロからしか始めたがらない。例えば、アドルフ・ロースやル・コルビジェたちのように、こうした歴史的、神話的シーニュを一掃し、空間を機能に分節し、機械のように構成しようとする人々である。」

^こうした歴史の視点はミッシェル・フーコーに絡ましても述べられている。「歴史的なものの厚み」の中で、物を見ることを旨とするフーコーの姿勢は彼の『臨床医学の誕生』の中の一文で示されている。「人間の思考の中で重要なのは、彼らが考えたことよりも、むしろ彼らによって考えられなかったことの方なのである。このノン・パンセは、初めから人間の諸々の思考を体系化し、それ以後はこれを際限もなく、言語であげつらいうるものとなし、さらにこれについて考える、という任務に向かって限りなく開かれたものにするのである。」つまり人間の精神の営みの深さは、この無限に広がる背景の中にあるのである。「少年老い易く学成り難し」ではなく、「少年老い難く学成り易し」の感のある今の時代にピッタリの書物であるように思われる。

^別の著書『生きられる家?経験と象徴』の中でも「身体」という要素が著者にとって大きな意味を持っている。身体を持つ人間の限界と同時にそのことが心の安らぎでもあるような世界を喚起してくれる。今でも多く残っている旧道は人間の身の丈に合わせて作られている。往時は足で歩くということが生活の基本であったのであろう。

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