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「日本語で書くために」辻部大介先生~“Novis2004”より~

2004/06/03

日本語で書くために -フランス文学 辻部 大介-
後藤明生「小説―いかに読み、いかに書くか」(講談社現代新書)

書くことの勧め

^新入生のみなさん、学科を問わず、人文学部生に求められるものの一つに日本語で書く能力があげられると思います。人に読んでもらう文章を書く機会はこれから格段に増えるはずです。在学中に、何本ものレポート、試験答案、それに卒業論文を課せられることを今から心得ていてください。

^さて、そうやってみなさんが書くレポートその他を読む教師の側は、それを読んで何らかの評価を下すのですが、評価にさいして、書かれている内容に劣らず、文章の質を問題にしていることが、じつは多いのです。

^かといって、おのおのの講義において、提出すべきレポートの文章がどうあるべきかという点についてまで、何か具体的な指針が与えられると期待してはいけません。教師は、あるいは教師にかぎらず一般に人は、レポートその他を読んで、それがいい文章か悪い文章か判断することはできても、何がいい文章で何が悪い文章であるか、誰もが了解できるような形で説きあかすことなどできないのです。

^ただ、つぎのように言うことはできるでしょう。われわれの生活は、たいていの場合、こういう場面ではこういう言葉を使う、という約束事で成り立っていて、社会生活を営むにはそうした約束事を身につけることが不可欠なのですが、文章を読んだり書いたりするときにかぎっては、約束事を超える何かが求められているのではないか。まったく興味のないことがらについて、ただ命ぜられたからいやいや書く、というような場合は措きましょう。切実な関心を抱いていることがらについて、みずから考えたことを、みずから納得のいく言葉で、しかも、言いたいことが読み手にうまく伝わるようにという配慮を忘れずに書き表すことを試みるなら、出来合いの表現は役に立たず、少々大げさにいえば、無から有を生み出すような苦労を味わわずにはすみません。

^そのようにいて書いた文章が、かならず読み手にいい文章と判断されるとは限らないのですが、そうした苦労なしに書いた文章が人を打つとはあまり期待できないのもまた事実ではないでしょうか。何やら恫喝のようになってしまいましたが、要は、文章を書くことは難しいという思いをすでに何度か味わっているにちがいないみなさんに、それでも目標はどこまでも高く、たとえレポート執筆というようなごく身近な機会にさいしてであっても、広い世の中にきっといる具眼の士をうならせるような文章を書きたいという意欲をもちつづけてほしいといいたいのです。

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