2005年懸賞論文:入選作品 「家族と私」 村上由美子さん
2006/06/08
家族と私
村上 由美子
^「家族とは何だろう」、私が「家族」というものに向かい合った時、一番にこの疑問が浮かんだ。血のつながった人々、または一つ屋根の下で共に生活を送る人々・・・いや、決して家族とはそんな簡単な言葉でまとめられるものではない。
^家族とは、個人と同様に二つとして同じものはない、この世の中に唯一の存在である。それぞれの家族によって、考え方も違えば、価値観も異なる。では、私にとって家族とは一体何なのであろう。
^家族といっても、個人個人は別の生き物であるから、もちろんその間に大なり小なりいさかいが生じる。しかしこのいさかいは、赤の他人同士のいさかいとは少し違う形で修復する。というのは、家族内では、けんかをしても何が作用したのか不思議と本人の気付かないうちに、いつの間にか仲直りをしているのだ。さっきの怒りはどこへ行ったのだろう、という具合に。
^ところが、他人同士だとほとんどのケースがそうはいかない。気まずい空気が流れ、結局はどちらかが譲り、気を遣わなければいけない。それは自分の内面を磨く大切な過程だと思っている。では、何が言いたいのかというと、家庭内では人に合わせる必要がない、無駄に気を遣うことがない、ということだ。ありのままの自分、自然な自分が出せる場で、つまり多少のいさかいも無条件に受け入れてくれる場なのである。家族の前だと、何か解きほぐされる感覚になるのは、この無条件の愛なのではなかろうか。
しかし、人間は何とも身勝手な生き物で、その恵まれた、心地いい場をわずらわしいと思ってしまう時がある。それがたとえ相手の優しさからくる行為であっても。簡単な例を挙げるとすれば、口うるさい時とあれこれ頼まれ事をされる時である。たかがそれくらいでと思いがちだが、それが積み重なるとわずらわしくなる。少なくとも私はそうだ。そしてこのようなわずらわしさに対して、つい反発してしまうことがある。
^しかしこのわずらわしいことを違う見方で見ると、考えも変わってくることに気付いた。一見、無駄とも言える言葉はコミュニケーションの一つである。コミュニケーションで家族関係を良くすることは、決して悪くない。そして物を頼まれるということは、自分は必要とされているのだということ、つまり愛されているのだと認識できる。
^さて、私にとって家族とは何か。それは、無条件の愛情に包まれた、心を落ち着ける場所、そしてそこは同時に自分の居場所でもある、という考えに至った。常に家族がいる、家族とつながっているという安心感で、私はとても幸せだ。他人が無条件の愛情を与えて
くれることはなかなか難しい。しかし家族にはそれが易々とできる。それが当たり前になりすぎて、つい家族の大切さをおろそかに考えてしまう。その大切さを常に感じながら、この世界に二つとない私の家族をこれからも大事にしていきたい。