2005年懸賞論文:入選作品 「家族と私」松本侑さん
2006/06/08
家族と私
松本 侑
^「以前の家族」から父を引いて猫を一匹と金魚を三匹足したものが現在の私の家族だ。そして母と弟と私とペットたちが暮らす、この人口密度の高いアパートが現在の私の住処である。両親が離婚したときには、家族がとても不自然な形に変わってしまったような気がしたのに、まるでずっと昔からこうしているかのような自然さで三年も暮らしている。
^私たちの生活は決して自堕落ではないが不規則だ。私と弟のバイトが終わって全員が帰宅する頃には午前零時を過ぎている。夜行性の姉弟は食欲、活力ともに最高潮になる時間なので、母は深夜に大量の夕食を作る羽目になる。家族でだらだらと物を食べたりお酒を飲んだりしながら、三時過ぎまで喋っている。「はやく寝なさい」という者がいないのはなんとお気楽なことだろうか。母がデートに出かけて朝まで帰ってこない場合、子どもたちはおもむろにDVDで映画鑑賞を始めたりゲームをしたりする。「学生寮は毎日が修学旅行」と言った友人がいるが、うちの家庭の実態はそれに近いかも知れない。自由で放埓で、それぞれに忙しく楽しい。
^家族によってつくられた自分の性格について考えてみる。たとえば積極性。うちの家庭では行動力ある者の評価が高い。意志を貫くこと。弱音を吐かないこと。本音を偽らないこと。流行に流されないこと。ブランド志向批判。無意味に群れないこと。これは家族が共通して持っている性質である。家族が外でどんな振る舞いをしているのかは知らないが、おおむね「やりたいことは一生懸命やるがマイペースでクール」な感じではないかと思う。ベタついた人間関係を死守するより、群れから外れてもやりたいようにやるべきだ。三人で暮らすようになってからは、ますますそれが大切なことになった。世間一般でいう「普通の家庭」からすこし逸脱したために、だからといって不幸せではないことを証明するのに躍起になっているのかもしれない。「気の毒な母子家庭」という認識と闘っているうちに、このような価値観が出来たのだと考えることも出来る。
^家族の持つ独特の密度を、他人に説明するのは難しい。江國香織の『流しのしたの骨』という小説がある。家族にしかわからない言葉を交わし、自分たちだけに通用するルールの中で生活する家族の物語だ。特別なことではない。どんな家庭にも当たり前にある。家族とは、絆と、独自の価値観で結ばれているものだ。特定の科目で百点を取ることが評価される家庭もあれば、平均して八十点以上取ることが評価される家庭もある。特技を持つこと、友達が多いこと、従順であること、個性的であること。子どもが人生で一番初めに知るルールは法律よりも家族の価値観だ。人はそのなかで規定されていく部分が大きい。
^私はもうすぐ社会人になる。家族や限られた友人だけが世界のすべてではなくなる。もっとたくさんの人間の中で、価値観が衝突することもある。混乱するかもしれないし、大きな悩みを抱えることもあるかもしれない。だからこそ、今まで家族の中で養ってきた自分の基盤を信じて、不器用でも明るい気持ちで社会を泳いでいこうと思う。