2005年懸賞論文:入選作品 「穏やかな世界」 重松直子さん
2006/06/08
穏やかな世界
重松 直子
^祖父は布をじっと見つめる。そして、たまに布に触れてみる。幾度もそれを繰り返す。私の祖父は認知症だ。
^祖父は私が高校に上がる頃から、少しずつ物事を忘れていった。それ以前の祖父は物静かで、いつも新聞を読んでいるか、庭を掃除していた。そして、理由はよく分からないが厳しい人であった印象がある。私は祖父の事をよく知らない。祖父の本棚には、法律関係のものらしい小難しい本から司馬遼太郎全集まで並べられている。きっと、そういう人だったのだろう。
^祖父は今、とても穏やかな世界を生きている。祖父が布を見つめる時、世界は祖父と布だけになる。そこには、社会のごたごたは一切存在しない。その世界はまるで、まど・みちおの詩の世界の様だと思う。
「そらのしずく?/うたのつぼみ?/目でなら/さわっても いい?」(『ことり』)
祖父は穏やかに色々なものと対峙し、世界を創る。その世界に私は、立ち入る事ができない。
私が将来を考える時、沢山の情報や自分の意思に遮られ何も見えなくなる事がたまにある。その時、私は祖父を思う。
「雲のすいとりがみが/月をおさえた/しずかに/金のインクがにじんでいく」(『ある日』※)
そして私は、また考える。ゆっくりと将来について考えていく。道のりが少しずつ浮き上がってくる。焦る事は禁物なのだ。
^祖父が穏やかな世界を創るためには、周りの協力が必要である。中でも祖母はすごい協力者だと思う。祖父がゆっくりと行動していても決して急かさない。祖母もまた、自分の時間を生きており、その力強さには驚かされる。祖父は幸せ者だ。
^私は今年二十歳を迎える。世間では、私を完全に大人として認識し、接するだろう。私が起こす行動全てが私の責任になる。私は決して穏やかとは言えない社会と対峙していかなければならない。そんな時、私はきっと祖父の穏やかな世界を思うだろう。それは私にとって、ひどく意味のあることだ。
^祖父は今日も穏やかな世界で何かに思いを馳せているだろう。私は祖父の世界が幸せであればいいと思う。
※論文中のまど・みちおさんの詩は新潮社出版の『とおいところ』より引用