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2006年懸賞論文:入選作品 「愛国心」今井宏昌さん

2007/03/23

愛国心

今井 宏昌

^今年(2006年)に入り教育基本法改正についての議論が活発化する中で、いわゆる「愛国心」をめぐる議論も、メディアを中心とした様々な場面において、盛んになされてきたように思う。「戦後60年」という歴史の大きな節目を乗り越えた現在、日本国内では、このような「戦後」の見直しと、それにもとづく新しい国家観の創生を目指す動きに、良くも悪くも注目が集まっているといえよう。

^さて、「愛国心」であるが、問題とされているのはその概念の曖昧さである。「愛国心」が文字通り「国を愛する心」であるのならば、そもそも「国」というものは何なのだろうか、「愛する」ということはどういう行為なのだろうか。今日行われている議論では、こうした「国」や「愛」がどういったものを指すのかという問題に一つの重点が置かれているといえる。

^個人的には、「愛国心」という考え、理念が存在すること自体には賛成だが、それを国家全体の教育の方針として取り入れ、生徒への評価のひとつとして加えることに対しては反対である。それは勿論、「愛国心」教育が、「愛国心」というものをもつこと自体の強制につながると考えるからであるが、それがたとえ「すべての人々は『愛国心』をもっている」という前提にたち、ある程度のコンセンサスが得られるようにその「愛国心」というものをきちんと定義して行われた場合であっても、やはり同様に反対である。いや、定義化するからこそ反対というべきなのかもしれない。なぜなら、規格化されたひとつの「愛国心」を基準として、他の「愛国心」を評価し、場合によっては改善させるという方法は、単なる「愛国心」の押し付けに他ならず、更にいえば、教育の現場における、「愛国心」をテーマとした議論の場を、失わせてしまう危険性を孕んでいると考えるからだ。私はまず、教育の現場に「愛国心」を持ち込む前に、多くの人々が「愛国心」について考え、議論しあえる場を用意することが不可欠であると思う。

^そもそも、「愛国心」教育を推進する意味とはどこにあるのだろうか。一部現状として、現代社会が抱える諸問題の原因を戦後教育に求めた上で、その解決策として、「愛国心」教育を推進するという動きがある。現代の社会問題の責任を、ほとんど教育のみに負わせるという点において、私はこの動きにあまり賛同はできないが、教育を利用して、自己の属する共同体へのアイデンティティとその内部の人的結びつきを強め、社会的に不安定な状況を改善しようという考え方には、ある種の共感がもてる。ただ、こうした改善策において中心を担う共同体の範囲的枠組みを考えた場合、「国」はあまりにも巨大で曖昧なものではないだろうか。アイデンティティというものは、大から小の順番で形成されるのではなく、小から大の順番で形成されるべきであると私は考える。「国」というものが個人の総体であるとするならば、個人から「国」を考える際には、その間にある様々な共同体を抜きにしては考えられず、また、仮にそうした諸共同体を抜きにして考えたとしても、そこには現実性のない「国」の像が浮かび上がるだけであろう。そうではなく、まずは家族、そしてその周囲に生きる人々が形成する小さな共同体に帰属意識をもち、それから、その共同体を含む地区、地区を含む町村、町村を含む市や郡、そして、市や郡を含む県・・・というように、徐々にそのアイデンティティを拡大化させていけば、その過程の中でまさに個人からの連続性と現実性を帯びた「国」がみえてくることになる。このように、段階を踏まえた上で形成された「愛国心」ならば、社会改善のための重要な鍵になりえると私は思うのだ。

^こうした、より小さな共同体からアイデンティティを拡大化していくことのメリットは、それがやがて「国」という枠組みを越え、より大きな共同体、例えば、「東アジア人」や「アジア人」としてのアイデンティティへと拡大化していく可能性を秘めている点にある。「家族愛」から「郷土愛」、「祖国愛」、「地域愛」というように、最小の共同体である家族という下位概念をベースとして、それを含む上位概念、更にその上の上位概念に対して次々とアイデンティティをもつことにより、いわば「重層化したアイデンティティをもつ個人」が形成されていくのではないか。ともすれば、こうした「重層化したアイデンティティをもつ個人」こそ、グローバル化していく社会そして世界の中で、「ローカル」、「ナショナル」、そして「グローバル」な視点でものごとを考えることのできる、真の「国際人」たりえるといえよう。

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