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2010年懸賞エッセイ:特選作品 「至福のひととき」鈴木久仁子さん

2011/06/25

「至福のひととき」

                                  LC100063 鈴木久仁子

地下鉄七隈線に乗る。改札口で通学定期をかざす。ゲートが開く。至福のひとときは、
まさにこの瞬間である。大学の門へと続くゲートだ。教科書や分厚いノート、辞書と
共に通り抜ける。私は大学生となる。一日が始まるのだ。

多くの若者は高校を卒業後、大学へ進学する。私たち日本に住む者にとって、その
ルートは太い。けれど私はそこからほんの少し外れた小道を歩んでいる。
私は、主婦である。

ある時は、片付かない部屋をぐるぐる回りながら整理整頓に励み、又ある時は、今晩の
おかずは何としようと、スーパーの中で路頭に迷う。私には二人の小さな子どもがいる。
一人は来春中学生。私は親である。

昨年の春、乳がんの手術をし、今は再発阻止の治療を受ける、私はまた一人の患者
でもある。18人に一人が罹患するといわれるこの病に、最早特別な感情を持つ必要は
なかろう。定期的な健診を続け、必要ならば手術を行い、薬の服用その他の治療をする。
どんな病気も一連のプロセスは同じだ。後は運を天に任せる。
私は今、普通の生活ができる。これが全てだ。

ただ、後悔する時間だけはないと心得る。告知を受け、やり残して困る事は何か、そう
問うた時、心にスイッチが入った。学ぼう。
大学生活は自己不在感の理由を突き止める旅である。「私」とは何者であるかという、
アイデンティティを確立できないまま、今に至る。
居心地の悪さ。理由はもちろん探してきた。本を読んだ。自信がつけばと、資格取得の
勉強もした。時々は、諦めてもみた。けれど時を経るに従い、事態は混沌を極めていった。

大人になる過程で、子どもの部分を脱皮し損ねたか。若さの特権であるはずの反発が、
知ることや理解することを、拒絶したのが災いしたか。けれども、もう目を逸らすまい。
何故自分の居場所を探し出せなかったかを、明らかにしたい。

「私」という個は何であったのか、人として、どこへ行こうとしていたのか。流れゆく果て、
安堵の息を吐く旅立ちとなれば。

生き始めた思い。
文化学科の学生として、先人の思想を知る。考え方の根本を学ぶ。先生方はプロだ。
生きた言葉で語られる深い知識を、今なら咀嚼できる。何より、それまで私の内で
ばらばらに存在していた知識の断片が、講義を通して有機的に結びついていく喜びを、
誰に伝えたらよかろう。だが、何より起伏の激しい私の精神を、真っ向から受け止めてくれる
夫の存在抜きに、何も語れない事は、自明なのだ。

おそらく、生まれて初めて自分と素直に向き合える時間を作り出せている。初恋が実る
喜びは、もしかするとこんな気持ちなのかもしれない。切り取った右胸は、思春期に抱えた
まま忘れていた荷の、名残だったか。そして、それは美しかったか。

カードをかざす。ゲートが開く。画面に期限の表示が現れる。あと2週間。
さあ、命を更新しよう。教科書とノートと辞書を抱き、教室までの幾多の階段を上ろう。
その先に見えるであろう光を心に刻むために。

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